まだ寒い春の夜、わたしは東から西へと空を渡りながらU市の真上にさしかかりました。 空は雲ひとつなく澄んで、どんなに小さいものも地面にくっきりと影を落しています。 川がほどけたリボンのようです。 線路は山をまわり、川を越え、畑や家のあいだをぬって点々と光をつないでいます。 しばらく行きますと、川と線路が交わるところに小さなお地蔵さんのお堂があります。 お地蔵さんは、その時どきに優しそうにも寂しそうにも見えるですが、その夜はふっくらと微笑んでいらっしゃいました。 「こんばんは、いい夜ですね」 いつものようにご挨拶して通り過ぎようとして、ふり返りました。 お堂の暗い縁の下に、もそっと動くものがあったのです。 ようやく芽吹きはじめた柳が縁の下を気づかっている様子です。 川風もそわそわしています。 なんだろう。黒っぽいもの。 縁の下に光を差し入れますと、猫が、なんと生まれて間もない子猫を抱いていたのです。 先っぽだけが白い足で、子猫を引きよせてはなめてやっています。 子猫はか細い足をふんばって乳を飲み、鳴き声は届きませんが、乳首を見失ってはミィミィと大さわぎしているのでしょう。 手前に見えるのは白黒のまだら、その向こうに黒いのが、その向こうにもう一匹。 ついお地蔵さんと顔を見合わせて、にっこりしてしまいました。 母さん猫が顔をあげました。 「おや、リリィじゃないか」 小さくやつれた顔、大きい緑色の目に私が映っています。 「お月さま、あたし、子どもを生みました」 猫はよく月に語りかけるものです。 「すごいね、よくやったね、おどろいたよ」 リリィはゆっくりと目を閉じて、またゆっくりと見ひらきました。 その満ちたりて誇らしげなこと。 川風と柳がほーっ、と息をつきました。 リリィはあの寒い冬の夜をどう過ごしてきたのでしょう。 食べるものは足りたでしょうか。 このさき、3匹の子を無事に育てることができるでしょうか? いいえ、心配はいりません。 本当のところ、リリィが子どもを生むことはないのです。 ほら、あの高い窓にいるのがリリィです。 温かく曇った窓の中でのびをしています。 「寝てたのかい?」 窓枠に頬をすりつけながら、のどの奥で「にゃお」。 とびきりご機嫌な挨拶です。 リリィ、お地蔵さんの草っぱらをおぼえてるかい? 柳と春風をおぼえてるかい? 窓から見えるだろ、おまえが生まれたところだよ。 いや、よしましょう。すっかり忘れいることでしょう。 その方がよいのです。 あのお堂の下に見えたのは、リリィの奥底ふかく沈んでいる猫の魂が見た夢だったのでしょう。 さて、川も遠のいてきました。そろそろU市とお別れして先をいそぎます。 おやすみ、リリィ。
by totto-nyan
| 2008-07-17 15:02
| 1 お月さまの話し
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